今朝の産経新聞一面のコラム「山河有情」にすばらしい内容が載っていました。元検事総長但木敬一(ただきけいいち)氏の文章の一部を書き写します。タイトルは『衆失えば国を失う』です。途中からです。
「・・・その根底にあるのは政治に対する不信感である。 わが国がさまざまな危機に直面し続ける中で、民心が政治から離れて久しい。ここ6年で6人もの総理大臣が生まれていること自体、政党を問わず、政治総体の求心力が欠如していることを雄弁に物語っている。われわれはなぜ自分たちの代表を賢明に選ぶことができないのだろうか。議院内閣制という民主主義制度を取っていながらなぜこのような事態に陥っているのであろうか。
まず政党が政策本位で形成されておらず、その時々の権力闘争による合従連衡の産物にすぎないことが、賢明な選択を著しく妨げているように思われる。現在の政権党のマニフェストは、事実上破綻に瀕している。これに替わってマニフェストにはなかった社会保障と消費税増税の一体改革が不退転の決意をもって語られるようになった。党内は割れ、その行方も混沌としている。これに対し最大野党も、かつて自分が政権党であったころ賛成していたはずの社会保障と税制の一体改革、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)参加などについて現政権と共同歩調を取るのかどうか、さっぱり分からない。ここもまた党内一枚岩とはいかず、議論が分かれている。 このように各党とも異種の政策が混在し、時に政党内の力関係の変化に伴って政党の方針が大きく変容する。これを前提にして、小選挙区制や比例代表制で政党を賢く選べというのは、木に縁りて魚を求むる類のことではなかろうか。選ぶ立場からいえば、一刻も早く政策本位で政界再編が行われれ、選挙権を正しく行使できる前提条件を整備してほしいと願わずにはいられない。
さらに小選挙区制は、国民から候補者の資質によって選ぶ権利を奪った。衆院選は政権選挙であり、政党本位で投票せざるを得ず、1党1人の小選挙区制では、どんな候補者でも選択の余地はない。その結果、確かに政権政党は選べたが、選ばれた個々の議員の資質には大いに疑問が残った。政党の質、議会のレベルを決する上で、極めて重要な要素である「人物の選定」ができないような選挙制度は再検討されるべきである。
求心力のある政治を生み出せるかどうかは、わが国の将来を決するであろう。「衆を得れば即ち国を得、衆を失えば即ち国を失ふ」(大学)。古今東西、政治体制を超えた真実であろう。いまやいかなる政党も、いかなる政治家も「衆を得」ているとは思えない。」
誠にごもっとも。納得しました。 |
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