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さて、江島さんがドナー登録をしたのは92年秋だ。 「登録の問題について質問したんですから、私自身が登録をすることは自然なことでした」 父の敦さんは参議院議員だったが、二期目の87年5月に体調を崩して59歳で亡くなった。政治家の血は争えない。江島さんは91年4月に市長選、93年7月に衆議院選挙に出馬したが、いずれも涙をのんだ。 96年8月、財団から適合患者が見つかったという連絡が入った。 「提供することについては、いささかの不安もありませんでした。むしろ適合する確率が低いと盛んに言われていましたから、宝くじに当たったような気分ですね」 だが、採取のための入院期間をどう確保するかで悩んだ。95年4月に再挑戦した市長選で当選していたのだ。予想以上の激務で、就任後は土曜・日曜もないような生活をずっと送ってきていた。 「結局水曜日の夕方に入院し、木曜と金曜は完全に仕事を休み、土曜と日曜午前の行事を欠席するというスケジュールをたてました」 そのころ、下関にあった韓国総領事館が閉鎖されることが明らかになったことから、存続のための交渉がつづいていた。韓国に飛んだ江島さんが帰国した日が、まさに入院の日と重なっていたのである。福岡空港に降りたってから、自宅に寄ってすぐ入院したため、地元のマスコミが騒ぎだした。 「江島市長が行方不明」 そんな見出しを掲げた新聞もあった。しかし江島さんは、退院後も骨髄採取のために入院していた事実を一切明かさなかった。かなりたって事実が分かってから、何人かの記者が謝罪にやってきたという。 |
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