第2回草莽塾
 「海外から見た日本と国際協力」 

元青年海外協力隊員 猶克実 (なお かつみ)

※WEBページ上で文章を読みやすくする為に、段落や部分ごとに一行空けてあります。


平成19年7月25日午後7時〜 宇部市文化会館第一研修室

 

  今日は、私が平成5年から平成7年まで、青年海外協力隊で南太平洋のサモアという国に行っていた時の話しをもとに、そこで私が学んだこと、見てきたこと、聞いてきたことを通じて、日本というものをどういうふうに考えるべきかということをお話したいと思います。

  まず、青年海外協力隊の価値、行く前とあとではどのように変わったか、日本を客観的にみてどうか、2番目に、日本のものさしと海外の常識、3番目に国際化とは、4番目に海外援助の実態、5番目は、原爆投下と真珠湾攻撃、6番目に国家とは、最後に日本人は自信をもてというテーマでお話します。

1 海外に行く前とあとでどう自分が変わったか

  サモアはどこにあるかといいますと、ハワイとニュージーランドの中間に位置し、赤道よりちょっと南にある島です。面積は四国の香川県くらいの大きさで、山口県の約半分の大きさにあたります。日本から約9000キロ離れています。

  私は海外協力隊でサモアに行くまでは、今考えると実に恥ずかしいですけれど、国家とか、日本の日の丸とかあまり考えたことのない人間でした。それがどうしてそのようなことを考えるようになったかといいますと、協力隊に行くことによって、海外から日本を客観的に見ることができるようになったからです。
協力隊にとって一番の価値は、金銭的な援助ではなく直接的な援助ができるということです。その中で、現地の人々の立場に立ち、また、そこにいる第三国の外国人とも深い会話をする機会に恵まれます。こうしたことが、日本を客観的に見ることにつながりました。

  また、自分が日本代表であるということを意識することも重要な経験でした。日本を代表するというのは、サッカーのワールドカップやオリンピックもそうですが、背中に日の丸を意識するということです。
サモアに行ったとき、1ヵ月位すると、海外旅行の気分がふっとびます。3ヶ月くらいすると、外国人になったような意識になります。それから半年くらいすると、日本のことを忘れてしまいます。そこの現地の人間になってしまうのですが、一方で、常に自分の後ろには日の丸があります。日本にいる外国人もそうだと思いますが、他国にいるがゆえに、自国を強く意識するということがあると思います。そうやって、日本を外国から客観的に見ることができるようになります。

  そのようなことから、日本を客観的に見るために、日本人にはどんどん海外へ行ってもらいたいと思います。そうすることで、日本のことがよくわかるようになります。ただ、観光旅行で海外に行ってもあまりの意味はないかもしれません。1ヶ月くらい海外にいると、自分が変わるのがわかるのですが、1、2週間では、本当のことを見ることはできません。1ヶ月くらい、明日はどこに泊まろうかとか考えながら旅するといいと思います。 私も実際、協力隊の活動の最中にも、1ヶ月ほど休みをもらえたので、サモアからニュージーランドへ旅をしたことがあります。バックパッカーとしての旅でしたので、日本にいるときとは全く違う体験をしたと思います。サモアだけでなく近隣諸国も学べました。

2 日本の物差しと世界の常識
〜主張しない日本人〜

 協力隊活動の前に、日本で77日間の訓練がありますが、そこで教えられる大事なことが一つあります。それは、決して日本の物差しで海外をはかってはならないということです。日本ではこうだから、相手国でもこうだという考えはしないということを叩き込まれます。現地に行ったときに、やはり日本ではこうだからと最初考えてしまうのですが、だからといって、相手の立場で考えすぎると日本としての自分をなくして相手国の人間になってしまうというのも良くないのです。そこにどっぷりつかって相手の国の人と同じになってしまうのもいけないです。

  そういうことで、日本の物差しと世界の常識がいかに違うということをいろいろ感じました。その中でも一番大きな違いは、日本人は主張をしないということです。日本人は、言わなくてもわかるだろうというという謙遜を美徳とする文化があると思います。ところがサモアでは、少なくとも言わなくてはわからない。言わないことは、意見がないということと同じなのです。これは特別にサモアだけがそうだったのではなく、現地にはアメリカピースコ(アメリカの援助団体)とかニュージーランドとか、オーストラリアやフィジーから、援助ボランティアがたくさん来ていますから、そんな人たちと会議で話しているとき常にそう感じました。

  協力隊派遣前訓練の英会話は、文法とかほとんど構わなくて、ジェスチャーでも何でも使って自分の気持ちをいかに伝えるかということを練習します。私たちは現地の人々に対して、身振り手振りで意思の疎通ができるように命がけで努力していました。ですから日本人は語学力が足りないから主張ができないというわけではないと思うのです。主張する意思が弱いということではないかと思います。

〜国際ボランティア会議での日本の立場〜

  サモアで、外国人ボランティアのフェスティバルを催すということで実行委員会が開かれて、ニュージーランドやアメリカの人たちが集まっていたのですが、日本人の私に対して次ぎように言いました。
「何も話さなくてもいいですよ、日本はあとで決まったお金だけ出してください。」
露骨にそういうことを要求されました。多くの国際会議、たぶん、国連でも同じではないかなと思うのですが、日本人はお金だけを出してくれたら役割はそれでいいですと、あとは私たちだけで決めますと言われることがあるのではないかと思います。それは情けなく思いました。

  どうせ、日本人は会話がへたくそだし、意思疎通もできないし、役割は金だけ出してくれればいいということです。開発途上国の日本に対するイメージはそのように共通していると思います。お金は出すが、意見を出したり主張したりすることはしない。あと全体で決まったことには従うというふうに。日本人というのは昔から農耕民族というか、田んぼに水を引くのも大勢にさからわないというように、大衆世論は正しいという文化ですから、そんなことも仕方ないかなと思うのですが、海外の常識からすると違うんですね。これはやはり情けないと思います。

〜国が違えば国の数だけ常識も違う〜

  それから、サモアでは日本の常識で考えたらおかしいということがよくありました。サモアではスコールが降ります。30分くらいバーッと土砂降りになって、ぱっと晴れる。台風が発生するような国ですからそんなことがあるのです。それで、ある朝出勤するとき、自転車でずぶ濡れになって政府の公共事業省という私の勤め先へと行ったのですが、上司から、「お前はどうした。びしょびしょになっているから、車を手配するから家に帰れ」と言うのです。
  日本では雨が降ろうが槍が降ろうが出勤するのが当たり前なのですが、サモアでは濡れてまで来ることはないということです。帰れと言われて、私もせっかく来たのに無駄だった、それなら最初から車をよこせと言ったらよかったなと思いました。それから、職場の人も、お前は日本人だからよく仕事をするのだろう、日本人は勤勉だからこれはお前の仕事だろうと開き直られることもよくありました。朝の9時半から4時まで仕事なのですが、3時半くらいまでで誰もいなくなります。11人くらいのサモア人スタッフがいるのですが、それがほとんどいなくなる。理由を聞くと、今日は村から友達が訪ねて来たからそっちに行ったとか、家族が来たからとか言います。
  仕事より家族や友人を大切にするのが当たり前、上司も当然それが当たり前だと言う、そういう国なのです。そういう国を相手に援助しているのですから日本の常識は通用しません。文書を出したからいつまでに返事がくるだろうとか、こんなことをしてやれば相手はきっと感謝しているにちがいないとか、そういった常識がいっさい通じないと思いますね。日本人の常識がどこの国でも同じではないということを考えておかなければならないということです。ですから、テレビなどのニュースなど見るときに、たとえば北朝鮮の拉致問題にしても、日本がこうすれば相手はこうするに違いないということの予想はほとんど外れていると思います。それくらい日本と世界の常識と違うのだと考えていた方がいいと思います。

〜日本が与えた海外への影響〜

 日本の精密機器とか、日本のもの作りは優れているというのは世界に知られていますが、日本人には、日本の文明が、明治維新にいたるまでは中国大陸から学んで、明治以降は西洋のものを真似て、それを工夫して成長したというように、外国のおかげ様という意識があるのではないかと思います。しかし、今現在日本にあるもので世界に広がったものもたくさんあると私は感じています。その中の一つに、名刺、英語でいえばname cardがあります。

  15年位前には名刺を持っている外国人はほとんどいなかったと思います。私がサモアに行ったころからぼちぼち外国の人が名刺を持ち始め、今では、世界中のビジネスマンのほとんどが名刺を持っています。そして初対面の人に名刺交換する際にはおじぎまで真似ています。それが世界の一つの常識になっています。これなど日本の良いところを海外が真似たという良い例だと思います。

 また、食生活の面でも、寿司とか納豆とかは、昔は馬鹿にされていましたが、今では健康食品として世界に広まっています。このように日本にある良いものがどんどん海外では取り入られています。
ところが日本では、舶来志向が今だ強く、外国から入ってきたものは値段が高いから良いものだろうという考えがあるかどうかわかりませんが、とにかく、舶来志向が強いと思います。その舶来思考が商品だけにとどまらずに様々な意見についてもその傾向があるように思います。外国からいろんな意見を言われたとき、日本国内で決まった意見よりも、外国の意見が正しいとふうに決めてしまうのではないかと、日本へ帰ってきたときに感じました。

  たとえば、テレビで靖国神社の問題について取り上げられたときなど、日本のマスコミ、特に朝日系列の人たちが、まっさきに中国や韓国の反応はどうだったということを報道します。日本人の意見を聞く前に、海外の人の意見が出てきます。これはおかしいことだと思います。日本国内のニュースならまず日本人がどのように思っているのかが一番のニュースになっていいはずですが、そうではないのです。そのうち時間がたって、国内でどんな反応があったかということよりも、近隣諸国から思われていることについて、日本人がどう思うかがニュースになります。それはやっぱり、異様な感じがします。

3 国際化とは
〜語学力がつけば国際化する?〜

  国際化といえば、日本人がまず考えているのはたぶん英語を勉強するとか、語学力をつけないと国際化しないなどということだと思います。外国の言葉に強くなくて外国の知識が吸収できるわけがないとか、そんなことを考えがちなのですが、さきほど言いましたように、言葉ができなくても 身振り手振りで表現することは可能です。言葉は知らないと言うことになると、そこで一歩手前にひいてしまう。語学力がないとコミュニケーションできないという意識を持っていると自分の気持ちを出せなくなってしまいます。協力隊の訓練では語学力は身体で覚えるということを叩き込まれる。赤ちゃんもそうですよね、日本人の赤ちゃんは日本語を覚える際には、身振り手振りをしながらしゃべれるようになる。身体で覚えるものです。だけど言葉から入っていくとどうしても最後には完璧なブリティッシュイングリッシュでないと書けなくなるししゃべれなくなる。サモアに多くの日本人がやって来て、彼らの中には英語をぺらぺらしゃべれる人もいるにもかかわらず、ぐずぐずしている様子をよく見ました。僕はでたらめな英語ですが、そんな人たちのために通訳までしました。しゃべれるのに、恥ずかしがったりするとしゃべれなくなります。それで、小学校のときから英語を習ったら国際化すると言う話がありますが、私は絶対にそうは思いません。英語とか語学力というのはあくまでも手段であって、方法であって目的ではない。流暢な英語よりもそのしゃべる中身が大事ですね。

  協力隊に行く前の話ですが、私は電車とかで、外国人を見たときに、お話していいですかとよく話しかけました。「Can I speak to you for a minute? 」(ちょっとお話ししてもいいですか?) とか言うとみなさんOKと言ってくれました。ところが、次に何を話そうかというと、自分に話す内容がない。日本のことを聞かれたときには答えられない。そのうち相手は退屈して会話をやめてしまう。語学力ができるとかでなく、話す内容がなかったら、相手に「日本に来ての印象はどうでしたか」というような決まりきった質問ばかりしてしまうことになります。これでは相手に馬鹿にされますよね。中身がないのに語学力だけがついてもしょうがないです。それよりももっと日本の歴史とかを勉強した方がまだましだと思います。

4 海外援助の実態

  次に、海外への援助の実際についてお話しします。かつて日本の援助は、ひも付き援助と呼ばれたことがありました。海外援助という形をとっていても、結局は日本の企業が仕事をするためにODAを利用しているのだという批判です。今もそう思ってらっしゃる方が多いいのではないかと思います。日本の企業だけのためにやっているのではないかと。しかし、実はちがいます。協力隊に行った人はほとんど同じ意見だと思いますが、ひも付き援助は悪いことではありません。

  たとえば援助先で学校を建てるときに、建設費用や資材を送って援助するとして、現地の人たちによって建設委員会などを組織して建ててくださいと言ったとします。しかし、それで学校が建つのなら、そもそも援助などしなくても建つ国なのです。実際はそれでは学校はできません。資金をあげるからそれを管理して建ててください、あるいは、建設資材を港に送るから建ててくださいとやると、それらはみんな個人の家に持って帰ってしまってなくなってしまいます。だから開発途上国なのです。日本企業が行くか、誰かがそれらを全部管理してつくらないと学校はできないのです。日本の常識で考えると当たり前にできることが、それができないから開発途上国なのです。実際に、お金だけを送ったりする援助では、力のある権力者がその費用で家を何件も持つことになってしまっています。

  ところで、中国は日本からの援助国ですが、中国もアジアを中心とした援助国なのです。日本から中国に渡った援助金が中国の援助金としてばらまかれていることになっているのではないでしょうか。日本が感謝されるのではなく中国の功績としているのです。その実態も私がサモアにいた頃、中国がサモア政府のビルを援助で建設していました。中国は本国から物資はもちろんのこと、建設機械や労働力の人間まですべて船でまるごとサモアに持ってきて、中国の力だけで建設し、完成後「これこれの金額に相当する援助を行ったから」と、サモア政府に援助をしましたと納品書を発行するわけです。まるで援助の押し売りでした。これ以上のひも付き援助はないでしょう。

  オーストラリアからの援助物資には驚くものがありました。高層ビル用の配水パイプです。それも中古品のように見えました。サモアに高層ビルなどあるわけがないのですが、一応サモア政府は援助に感謝の意を表します。これなんか絶対おかしいですね。排水パイプが余ったものか不要なものかわかりませんが、開発援助国にゴミを捨てたのとどう違うのでしょうか。批判されていることばかり日本人は耳にしていますが、日本はましな方だと思います。

  日本の援助は相手国に「来年何が必要か」と聞きます。日本が予算主義をとっているため、どら息子に来年も世話をしてあげると約束するようなものなのですが、これではいつまでも援助は終わりません。ザルで水を汲むようなものです。援助を終わらせたくない日本の外務省の都合があるのかもしれません。パソコンがほしい、車がほしい、病院や学校を建ててほしいということになり、それによってお金だけ援助すると、どんどん大臣官邸などを建てて、それを自分の財産にして一族に住まわせてしまう。つまり、力のある人が全部取ってしまうのがお金だけの援助なの実態です。ここにも、国内の補助金のように日本の物差しを外国で用いることの危険性があると思います。港に物資の援助品を送った場合も同じです。どうやってそれらを困った人に届けるか、それが援助の一番難しいところです。

5 原爆投下と真珠湾攻撃

  サモアでは、同じく援助に来ているアメリカ人とも議論したことがあります。一番印象的だったのは広島、長崎に投下された原子爆弾についての話をしたときでした。

  アメリカ人は、先の戦争は日本の真珠湾攻撃によって始まり、原爆投下によって終わったとされています。原爆投下が戦争を早く終結させたということで、その使用を正当化しているのがアメリカでの一般的な考え方です。真珠湾攻撃をやった日本の方が非難されました。

  そこで、私は広島長崎の原爆投下によって、普通の民間人が30万人以上も亡くなったと言うと、そこで初めて彼らは驚くのです。そこから立場が逆転します。そんなにたくさんの人々が原爆投下によって亡くなったのかと。アメリカでは原爆を使ったことは教えていますが、その被害については詳しく教えられてない。アメリカといえども、自国に都合の悪いものは国民に教えてないということは、中国や韓国でも同じかもしれません。そういった国から一方的に日本が非難された場合、最初からすべて日本が悪いと思いこんでしまうより、日本もこれこれこうなのだと主張することも大事なのではないでしょうか。こういう経験から学んだことは、アメリカ人に限らずいろんな国の人々と会話し、日本はいろいろ反省の言葉を何度も言っていますが、そういう言葉だけでなく、日本人の主張も話してみることも大切なことだと思います。

6 国家とは
〜国家とは個人の集まり?個人が集まれば国家ができるか〜

 日本を外国から客観的にとらえることができるようになって、国家そのものに対する関心も深くなりました。国家とは何かということを自分なりに考えてみました。

  国家とは個人が集まった集合体でしょうか?個人が集まれば国家になるのでしょうか?同じことを会社にたとえますと、働く人が集まれば会社になるでしょうか。なりません。会社があって初めて社員が形成されます。働いて儲けたい人が集まっても、会社というものを誰かが組織しないと会社にはなりません。会社は社員みんなが作っていくものです。

  国家も同じではないでしょうか。個人がいくらたくさん集まっても国家にはなりません。国家という単位の規律や文化のようなものがなければ単なる集合体です。国家はひとりひとり個人が支え守っていくものだと思います。『君が代』や『日の丸』を尊ぶようなことを言うだけで「国粋」とか、「ナショナリズム」だとか、「軍国主義につながる」とかの批判になってしまうような国はおかしくありませんか?
またサモアの例でお話ししましょう。サモアでもテレビ放送やラジオ放送がありますが、国家元首がテレビやラジオに出ると、どんな場合でも国民は手を止めて、顔をテレビの正面に向けて姿勢を正します。夜10時頃放送が終わる最後は国歌が流れるのですが、国歌がテレビやラジオから流れる時には、サモア人でも直立不動の姿勢をして雑音を止めて静かに聞きます。サモアは平和な国で決して軍国主義とは関係ありません。日本はどうでしょうか。

  開発途上国でも子供の頃から国家を尊敬することが普通の国になっているのではないでしょうか。サモアだけではなく開発途上国でも国家を大変大切にしています。

  日本に帰国した直後の2月に長野オリンピックがありました。その時日本人の里谷選手だったと思いますが、銀メダルで表彰台に上がっている映像をテレビで見ました。生中継です。金メダルの選手の国歌が流れた時、里谷選手が帽子をかぶってよそを向いていました。それを見て、「あっ撃たれるかもしれない」って思ったものです。でもここは日本でした。海外では考えられないことです。

  協力隊活動中にサモアのJICA事務所に、「アフリカのある国で、協力隊員が国旗掲揚台に腰掛けて国外追放になった」というニュースが飛び込んできました。軍事政権の国でしたから、現行犯で即射殺されてもおかしくない状況だったのですが、逮捕されて、日本の外務省が努力して、なんとか国外追放処分で済まされたという知らせです。他の隊員も注意するようにということです。軍事政権の国では国家というものは、多くの血が流されて尊い犠牲の上に現在の平和が成り立っているという意識がありますがら、国旗掲揚台といえども腰掛けたりして侮辱することは許されません。そういう国もあるのです。

  里谷選手の場合も同じですが、私は教育していないことが問題だと思います。国家とかそういうものを軽く教えていると、それは海外で通用しないこともある。むしろ危険なことです。アフガニスタンやイラクに観光気分で出かけて、まるで国内旅行のように出かけで殺されることがあるのは、日本での教育が間違っています。そういうことを教えていない。むしろ国歌や国旗を尊ぶことを教えると、さきほど話しましたように、ナショナリズムとか軍国主義につながるとか、そういう話になるほうがおかしいのではないでしょうか。

  日本では戦後、国家よりも個人を尊重することに重きを置いた教育がされてきました。私もその教育を受けた一人です。日本の歴史教育では縄文時代や弥生時代はしっかり時間をかけて習いますが、近代史は最後の3学期ですから、ほんの少ししか時間がありません。ましてや大東亜戦争の近くになると、当時の世界情勢やなぜ日本が戦争に至ったかなど、全くと言っていいほど授業では触れません。まるで真実を知るのがタブーの状態です。真の歴史を学ぶより、とにかく「日本は悪いことをした。日本は二度と戦争をしてはいけない。戦前の軍国主義はアジアを侵略し、アメリカに真珠湾攻撃で奇襲をかけて戦争をした。二度と軍国主義に戻ってはいけない。」などが戦争についての平和教育でした。
すべてに何の疑いも持たずに大人になりましたが、海外生活で初めて、すべて正しいのだろうかと疑問を持つことから、本当の日本のありかたを考えるようになりました。

  その結果、国家を尊重することを否定するような今の日本はおかしいのではと気がつきました。また「個」と「公」の問題にぶちあたりました。どこの国でも「公」あって「個」が存在します。日本に民主主義をもたらしてくれたアメリカでも同じです。個人を尊重することは国家を否定しません。むしろ国家に対する国民の義務を果たすことに価値を置いているということです。

  しかし、日本では国家に対する義務よりも個人の権利を要求することに重点を置いているように感じます。「個」と「公」を考えるとき、「個」の方に重点を置いているということは行き過ぎた個人主義となり国家を滅亡させます。「公」、つまり国家なくして「個」もなりたたない、それを忘れているように思います。
かつて、アメリカのケネディー大統領が選挙演説中に国民に向かって言った言葉を思い出します。
「国家に何かをしてもらおうというのではなく、国家に対して何ができるのかを考えてよう。」
あの個人主義的なアメリカでさえ、国家を尊ぶ国なのです。多民族国家は、その精神なしではまとまりません。今の日本人は、個人の権利を主張するあまりに、このような考え方が欠けているのではないでしょうか。

7 日本人は自信を持て

  どの国も自国の国益を重視します。それを他国に対し主張することは当然のことです。
よくグローバリズムという言葉を耳にします。わたしは、とても響きが良さそうですが、その言葉には大きな問題が隠されていると思います。世界が一つの価値観や基準になることはあり得ないことだと思っています。だからむしろ一番危険な思想かもしれません。相手の主張や考えを聞き入れ、間をとって中間に合わせるなどとしても、世界には星の数だけ違った考えや文化があります。それを一つずつ理解して合わせるなどとできるわけがありません。現在のグローバリズムとはアメリカの民主主義や考え方に合わせることであって、真のグローバリズムではないと思います。経済ではアメリカンスタンダードを世界基準として強要し、宗教観もキリスト教徒イスラム教の対立の構図です。

  世界中の国が違った考えや宗教だから戦争しかないのかというとそうではありません。真の国際化とは相手に迎合することではなく、お互いの違いを理解することだと思います。平和はその違いを認めて共存することしかあり得ないと思っています。

  国が、他国に対し何かひとつの考えに合わせようとすれば、相手を変えようとすれば戦争になります。個人でも同じです。相手を変えられなければ自分が変わるしかありませんが、その相手は多すぎます。合わせようとするのではなく、お互いの違いを認め合っていくことが大事だと思います。
だからそういう意味でグローバリズムというものが、もっともらしくても、とても危険な思想であると思うのです。
  今の日本は、戦争責任に関しても、他のことでも外国から言われれば、常に「そうかもしれない」と、正義が右往左往していませんか?すべて正義の基準が外国の言いなりに動いています。そういう勢力が国内でも芽生えます。どこの国でも国益を重視した発言をするのはあたりまえ何ですから、もっと日本がしっかりしなければなりません。戦争に負けていつまでも正義に自信がないのはますます国力を落とします。
  日本が軍国主義に戻るのかとか、ナショナリズムが危険だとか外国から言われていますが、日本の自衛隊は戦後一度も外国に対し一発も弾を撃ったことがありません。どこにそんな平和主義の国があるでしょうか。もっと自信を持ちましょう。

 あの日米開戦のきっかけとなった、真珠湾攻撃に至るまでの日本がどういう状況に追い込まれていたか。ハルノートを突きつけられ、ABC包囲網で、資源を海外に頼るしかない日本が経済封鎖され、その原因が大陸を侵略した日本にだけあったと教えられて来ましたが、アメリカやイギリスにも都合がありました。当時のヨーロッパ戦線で敗北直前のイギリスはアメリカのヨーロッパ戦線に参加を望んでいました。しかし当時のアメリカは、世論が参戦に反対していました。日本が先制攻撃を仕掛けてくるように、当時のチャーチル首相とルーズベルト大統領に、仕組まれたという意見もあります。そういうことは学校では学びません。日本が真珠湾攻撃を奇襲した直後、チャーチルは大喜びして「これで勝った」と言ったという記録もあります。アメリカ世論が、アメリカの参戦にいっきに傾いたからです。
大東亜戦争は日本の防衛戦争であったと、戦後トルーマン大統領とマッカーサー元帥が認めたという話もあります。アメリカが同じ状況に追い込まれていたら、日本と同じように行動したであろうと、アメリカの大統領が言ったのです。

 朝鮮半島から日本が撤退したあとは、平和の安定が崩れ、アメリカが日本の代わりに、朝鮮戦争を戦うことになりました。東アジアで日本が戦っていた相手は共産主義だったと、今のアメリカの教育では教えています。それを日本では教えていません。ただ日本が戦争したことが間違いだったとしか教えず、そういうことには触れていないのです。

 日本が進出した国々では、西欧が植民地にした状況とは全く違います。インフラ整備もやっています。現地人の教育もやっています。それをただ日本化教育を強要したとかだけ批判されていますが、文盲率が劇的に改善したという事実もあり、現地人には高く評価されています。日本人が正しく知らないで、台湾やタイ、インドネシアなどで評価されているわけです。今でも親日的な国々です。

  自国の歴史を築き存続させるということは、先人たちの並々ならぬ努力の賜物で、今の日本の平和も先人の尊い犠牲の上に成り立っています。それに敬意を表することは当然で、日本人自身が否定するのはおかしいと思います。良くも悪くも、日本人の立場で、歴史は正しく評価したいものです。
日本人は、世界に貢献できる大きな力を持っています。日本人独自の美徳も多くあります。グローバリズムを目指す世界最強のアメリカにはない、宗教にも寛大で、外国文化にも順応性の高い世界まれな平和主義を持っています。ですから、日本人らしさを捨てることなく、もっと自国の文化や歴史に自信を持っていいと思います。自国を愛することは、普通のことです。ナショナリズムが悪ではありません。どこの国も愛国心が軍国主義ではありません。世界が平和であり続けるために、日本が世界に貢献し尊敬されるためには、日本は普通の国になって欲しいと思います。

 〜サモアから帰国した直後に思ったこと〜

 朝、成田についたとき、平成7年の12月に帰国しましたが、ちょうど都心に向かう通勤列車に乗りました。冬ですが短パンでした。そのときに、この電車の中で自分が一番人間らしいなと自信を持ちました。というのは、みんなを見たとき、「今日は二日酔いで仕事に行きたくないな」とか、みんなそんな顔をしていました。私は心の中で、「行きたくなければ行かなきゃいいのに」と思いました。ところが日本ではそれは通用しないのですね。なぜそう思うかと言うと、「自分が前向きに、俺はこれをやるんだ」という気持ちで仕事やっていれば無駄ではありませんが、「ああ行きたくない、ああいやだな、寝とった方がいい」という人間が無理に仕事をしても人間らしくないから不幸ではないかと思ったのです。こんな日本人がなぜ幸せになれますか。いやな仕事でも、俺はやりたいという顔をしているのとやりたくないという顔をしているのでは全然違いますね。そういう面でも、なんだか日本人というのは何をするにしても自信がないという顔に見えました。たいしたことではないけど海外協力隊に行って帰ってきた直後の通勤電車の中で、そんな雰囲気の異様さを感じたのは今考えてもすごく驚きます。

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